見えているのに、なぜか納得できない。
そのわずかなズレが、違和感になる。
感覚は、曖昧なものではない。
それは、まだ言葉になっていない判断である。
見えていることと、感じていることが、ずれている。
違和感は、ほんの小さなズレから始まる。
言葉は正しい。
情報も、間違っていない。
それでも、どこかで止まる。

整えられた表現。
計算された印象。
一貫しているように見える構成。
けれど、触れたときの感覚が、それに追いつかない。
理由は説明できない。
けれど、たしかに残る。
そのわずかな引っかかりを、
私たちは、見過ごさなくなってきている。
「なんとなく良さそう」と思ったものが、
使い続けられない理由は、そこにある。
理屈では納得できても、
感覚が、静かに離れていく。
逆に、触れた瞬間に決まるものがある。
迷いがない。
これでいいと、自然に思える。
あとから理由を探すこともできる。
素材かもしれない。
つくられ方かもしれない。
そこにある思想かもしれない。
けれど、その前に、すでに選ばれている。
感覚は、曖昧なものではない。
むしろ、これまでの経験や知識が、
言葉になる前に統合されたものに近い。
だからこそ、違和感は無視できない。
それは、まだ説明されていない気づきであり、
判断のずれを知らせる、小さな兆しでもある。
情報を重ねれば、正しさには近づく。
けれど、
感覚が納得していない選択は、続かない。

私たちは、
正しいものを選びたいのではない。
納得できるものを、選びたいと思っている。
直感と情報がずれるとき、
どちらかを捨てる必要はない。
違和感があれば、立ち止まる。
そして、確かめる。
納得できたとき、
はじめて、感覚は静かに戻ってくる。
感覚が迷っていない状態。
それは、
正しさと美しさが、無理なく重なっている状態なのかもしれない。
説明できるから信じるのではない。
信じられるから、説明できる。
その順序が崩れないとき、
違和感は、静かに消えていく。

